キリスト教の誕生
哲猫
ver. 2.0

原始キリスト教団は、ユダヤ教から分派して出発した。原始キリスト教団はエルサレム教会が主導したが、その中心メンバはイエスの一族と十二弟子であった。当然、エルサレム教会に属していた人々はエルサレム神殿での礼拝を欠かすことはなかった。しかし、第1次ユダヤ戦争が、ユダヤ教と原始キリスト教の決裂を決定的なものにした。ユダヤ人を中心としたパレスチナの人々がローマの圧政に対して66年に蜂起したのが第1次ユダヤ戦争の始まりである。しかし、この戦争は、70年にローマ軍によるエルサレム陥落により一応の終結を迎えることになる(ローマに対する抵抗はマサダの砦で暫く続くのであるが)。そして、この戦争によりユダヤ人の唯一の礼拝場所であったエルサレム神殿が破壊され、これ以降神殿は再建されることはなく、従来の礼拝形式が不可能になったことが、その後のユダヤ教とキリスト教にとっては、非常に重要な意味を持つようになった。

破壊されたエルサレム神殿は第2神殿と呼ばれたものであった。第2神殿というからには、第1神殿があった訳であるが、このエルサレムにあった第1神殿というのは、(伝説上の)ソロモン王が建設したものとされている。旧約聖書にはこの神殿が壮大なものとして描かれているが、ソロモンの時代に壮大な神殿があったというようなことはあり得なる筈もないことである。ソロモンの死後、彼の王国(イスラエル12部族の連合国家)は南北二つに分裂するとされている。北王国のイスラエル(10部族の連合国家)と南王国のユダ(2部族の連合国家)である。この2国で比較的豊かであった北王国イスラエルはアッシリアによって侵略され国家も民族も消滅する。このとき弱小勢力であった南王国のユダは、アッシリアの属国として辛うじて生き延びることができた。しかし、その後、アッシリアに取って代わった新興の帝国バビロニアにより、エルサレムは侵略される。そしてエルサレム陥落によって第1神殿は破壊され(前586年)、エルサレムの中でエリート層を中心とした住民達がバビロニアに強制移住されることになったのである。これがバビロン捕囚である。しかし、神はユダヤ人を見捨てなかった。その後、バビロニアがペルシャに滅ぼされるのである。ペルシャ王キュロスは寛容な政策をとって征服民族を従属させたことは幸いであった。キュロス王により捕囚のユダヤ人は故国への帰還が許可され(前537年)、熱意のある一部の人々がエルサレムに戻り神殿を再建することになる。こうして再建されるのが第2神殿であるが、その再建は思うようには進まなかったようである(帰還したエリート層のユダヤ人と母国に残っていた下層のユダヤ人の関係が良好でなかった為と思われる)。第2神殿がどうなり、その時代、ユダヤ人はどうしていたのかについては、聖書は殆ど何も語らない。聖書が同時代に書かれ始めたにも拘わらずである。この時代はユダヤの歴史にとって暗闇の部分である。尚、バビロニアによってユダ王国が滅ぼされる直前に、王国内で宗教改革が行われれ、各地にあった地方祭壇が取り壊され、礼拝はエルサレム神殿のYhwh(ヤハウェイ)神に対してのみ行われるようになった、ということは特筆すべき事実である(ヨシア王による宗教改革)。元来イスラエル・ユダの各地では、他の民族と同様に様々な神が崇められていたのである。Yhwhのみを神とするのはバビロン捕囚期に、ユダヤ人エリート層の中で強固なものとなった。ユダヤ人のidentityを保つのに必要であったのである。ともあれ、ユダヤ人は故国に戻ることができた。その後、ユダヤは、前331年にペルシャを滅ぼしたアレキサンダー大王の後継者(プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリア)からの支配を受けることになった。パレスチナがヘレニズム化される時代の幕開けである。しかし、ユダヤ人は、エジプトとシリアの抗争の間隙をぬって遂に、マカベア戦争(前167年)と呼ばれる戦いに勝利することで自立の道を歩むことになる。ここにマカベア戦争を主導したハスモン家の王朝が成立することになる。尚、ハスモン王朝は、ダビデ王の血統の者が王として君臨したとされるユダ王国の正統な後継者には成り得なかった(ハスモン王朝の王がザドク家の人間だけがなれる大祭司職も兼務するようになったことに反発した一派がクムランに逃れ、そこで残した文書群が「死海写本」であるとする見方もある)。それは、ハスモン家が地方祭司の出て、従ってダビデ王の末裔ではなかったからである。それでもユダヤ人が自分たちの国家を再建できたのである。しかし、それも束の間で、新興のローマによって、ユダヤもその属国とされてしまうのである。この時代に、ローマのアントニウスそしてオクタヴィアヌスに取り入ったイドマヤ人(このイドマヤ人というのは、ユダヤの南の領域に居住していた非ユダヤ人であるのだが、ハスモン王朝により強制的にユダヤ教へ改宗させられた人々である)のヘロデ大王により、ユダヤ人の国家は乗っ取られてしまうのである(ハスモン王家の内紛を利用してハスモン家の女を妻としたヘロデが結局は王国を分捕るのである)。話が少し長くなったが、このヘロデ大王とその後継者によって、エルサレムの第2神殿が拡張されることになり、ここに歴史上初めて壮大なエルサレム神殿が完成することになったのである。しかし、純粋なユダヤ人ではなくローマの傀儡であったヘロデが、エルサレム神殿をユダヤ教に完璧に則って建設したとは考えにくい。この時代はユダヤ教そのものが堕落した状態にあったと考えられる。

重要なのは第1次ユダヤ戦争によりユダヤ教そのものが改革されることになるということである。それまでのユダヤ教は、エルサレムの神殿を礼拝の対象としていたが、神殿が消失したことにより、それまでも各地には存在していたシナゴーグ(会堂)を中心とした礼拝に変わらざるを得なくなったのである。そして、神殿に仕えていた祭司グループのサドカイ派が没落し、そのライバルであったファリサイ派(パリサイ派)が、その後のユダヤ教を主導していくことになったのである。このファリサイ派が、戦後、原始キリスト教徒と袂を分かち、ヤムニアの地で律法の書などヘブライ語文献をまとめあげて正典としたのが、現在、プロテスタント諸派が用いている旧約聖書(ヘブライ語聖書がその元)なのである。一方の原始キリスト教徒は、エジプトのアレクサンドリアのユダヤ人社会でヘブライ語からギリシャ語に翻訳された七十人訳聖書(Septuaginta)を聖書(旧訳聖書)として用いていたのである。よって、新約聖書が引用するところの聖書は、勿論ヘブライ語聖書ではなく、七十人訳聖書である。尚、七十人訳聖書とヘブライ語聖書とでは、配列も文書の中身もかなり異なる。

ところで、原始キリスト教団の人々は、第1次ユダヤ戦争に際しては、ユダヤ人、イドマヤ人やサマリヤ人などとは異なった態度を取ったのである(だからこそ原始キリスト教徒とファリサイ派主導のユダヤ教徒は袂を分かつのである)。つまりは、原始キリスト教団の人々はローマ軍と戦うことを回避したのである。そして、戦後はペレアに逃避することになる。新約聖書では、サドカイ派より専らファリサイ派が悪者として登場するが、それは、もはやサドカイ派などは対抗する対象ではなく、第1次ユダヤ戦争後は、原始キリスト教団にとって、ファリサイ派が最大のライバルとなったことを物語っているものと思われる。こうして、ファリサイ派の主導する新しい形のユダヤ教とそれとは組みしない原始キリスト教団とが対峙することになるのである。そして、その場所は、最初はガリラヤということになる。だから、福音書に於ける伝道もガリラヤがその中心となっているのである。
ただ、原始キリスト教団も一枚岩という訳ではなかった。そもそもユダヤ人は、割礼は受けないが聖書の律法は重んじる人々を「神を怖れる者」として、これらの人々を宗教的に導いていたので、原始キリスト教団の中にも完全なるユダヤ人とそうではない人々が含まれていたのである。因みに、ユダヤ人と非ユダヤ人は会食を共にすることはなかった(これはユダヤの律法の規定である)。そして、第1次ユダヤ戦争後に、原始キリスト教団の中で主導権を取ることになったのが、ギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニストと通常呼ばれる)であった。これらの人々の先達となったのがパウロという訳である。しかし、パウロ自身はユダヤ戦争勃発の頃に亡くなったと伝えられているから、ヘレニストの方がパウロを利用したのではないかと思う。ヘレニストたちが非ユダヤ人と行動を共にし、ユダヤ教的なものから脱却していくのである。

その後、132年に第2次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)が起こり、パレスチナのユダヤ人達は再びローマに立ち向かったのであるが、これもローマ軍によって、徹底的に鎮圧され、ユダヤ人がエルサレムへ立ち入ることは禁止されることになった。これに対して、原始キリスト教団の方は、ネロを始めとする幾人かのローマ皇帝により迫害されたということはあるが、最初から親ローマであることには変わりはなかった。福音書以外では極悪非道とされているピラトが福音書では極めて好意的に描かれていることからも、このことは推し量ることができると思う。

原始キリスト教団も、後に異端とされる様々な分派が誕生するが、後に正統派となる一派はこれら分派の主だった者を排除しつつも、それらの教えを巧みに取り入れながら権力側に接近していった。そして、当時ローマ帝国の屋台骨が崩れかけていた時代の皇帝となったコンスタンティヌス1世が、この正統派キリスト教を、帝国の維持に利用しようとする思惑と権力側に付こうとする正統派との思惑が一致し、正統派が今日に繋がるキリスト教となり、この過程で新約聖書もまとめ上げられ、今日あるキリスト教の礎が築かれたのである。そして、異端とされた者達は迫害され、彼らの著した書物は徹底的に闇の中に葬り去られることになった。しかし、そもそも教典となる書物をまとめようと考え出したのは、異端とされるグループ(マルキオン派)なのである。

以上、キリスト教の誕生について、かなり省略して記述してみたが、そして、この中ではイエスについて敢えて触れることをしなかったのだが、それでは、キリスト教の始祖であるイエスは、キリスト教とどういう関わりを持つ存在なのか、という問題が残ることになる。これは、極めて難しい問題であるが、少なくとも言えることは、イエス自身は今日あるようなキリスト教なるものを興そうとはさらさら考えなかったということである。つまりは三位一体などという教義をイエスが聞いたら驚くかも知れない。それに、新約聖書に収めれている各種書簡を執筆したパウロという人物は人間イエスなどというものには一切関心を示さなかったとしていることは重要である。パウロにとって、イエスは人々の罪を背負って死んだのであるが、しかし、復活を遂げるということが大切なのである。尚、パウロ書簡は福音書が書かれる以前に書かれた書物なのである。最初の福音書であるマルコ福音書は第1次ユダヤ戦争勃発期かその直後に著されたとされ、他の3福音書は更にその後に書かれている。原始キリスト教徒は、イエスの弟子(後に使徒と称される)の言い伝えと、パウロ書簡により、活動していたのであるが、言い伝えを重視していた一派が、徐々にパウロ書簡(即ち文書)を重視する一派に凌駕されていったことは疑いない。ただし、人々は理詰めだけで信仰を持つことはできない。やはり、何らかの「お話」が必要である。それが福音書誕生の原動力の一つになった。しかし、福音書を著した最大の目的は、やはり自分たちの正当化であろう。マルコ福音書は、12弟子をこき下ろし、さりげなくではあるがイエスの血族を無視している。ただ、福音書はイエスの死後40年以上経って書かれたので、残念ながら(というか幸いにしてというべきか)イエスの言動に関しても曖昧になってしまった。尚、最初に書かれたマルコ福音書にはイエスの誕生物語はないし復活の話もない。このことは極めて重要である。

ところで、人間にとって名前というものはとても大切である。例えば、太郎という人がいたとして、その人が別の国でジョンと呼ばれなければならないとしたら、きっと不快に感じる筈である。これは本人だけの問題ではなく、その人物が重要であればあるほど、その人の名前を本当の音に近い音で発音して貰いたいと思うのが当たり前ではないだろうか。イエス自身も、周りからけっして「イエス」とは呼ばれなかった。彼は、「ヨシュア」か「エホシュア」か「ホセア」または「イェーシア」と呼ばれていた筈である。この名前は当時のユダヤ人にとってはありふれた名前である。しかし、ギリシャ語では、アで終わるのは女性名になるので、-sを付けて男性の名前に変えられたのである。イエス(イエスス)と後に呼ばれることになった人物は、自分の本当の名前は無視され、一般名詞と同様に翻訳された名前で呼ばれることになったのは、意味深いことだと思う。

それでは、後にナザレ(因みにこの名もギリシャ語であり、本当にナザレなどという集落がイエスの時代にあったかどうかは分からない)のイエスという名前で呼ばれるようになった人物は、全く架空の人物で存在もしなかったのだろうか。イエスの誕生物語もイエスの十字架の話も全くの捏造なのだろうか。そうであれば、何があって、原始キリスト教団なるものが誕生して、何を精神的な支柱にして、この教団は信徒を増やして行ったのだろうか。そういう疑問が、その場合は、出てくることになる。多分、福音書に描かれたイエスの元になる人物は存在していた筈である。それは、イエスを描いた書物が、新約聖書以外にも存在するからである(ただし、ヨセフスが著した書物の中のイエスに関する記述は後世の誰かが意図的に挿入したものに相違ないという考えに同意したい)。しかし、これらの記述はかなり脚色されていることは疑いない。従って、ヨセフスの文書には、イエスに関する記述はなかったとするのが妥当であると思われるが、イエスが師事した洗礼者ヨハネ(神への悔い改めの徴として洗礼を施したのはヨハネでありイエスもヨハネから洗礼を受けている)に関して、ヨセフスがきちんと記録していることは興味深いことである。ヨセフスは、ユダヤ古代誌やユダヤ戦記などをギリシャ語で著しているが、彼自身はハスモン王家に繋がる血統であり、第1次ユダヤ戦争でガリラヤ方面を防衛する将軍として従軍しているのである。そのヨセフスは、その著書にガリラヤの各地名を記載しているのに、ナザレについては何も記していないし、勿論、ヨシュア(イエス)について事実上何も記していないのである。また、ヨシュア(イエス)はローマ人のユダヤ総督ピラトの命令で十字架につけられるが、大体に於いてヨシュア(イエス)はローマ総督の支配下にあったユダヤ人ではなくガリラヤ人なのである。当時のガリラヤ領主はヘロデ・アンティパス(福音書ではヘロデと記されている)であるから、イエスを裁くことができるのは、エルサレムの最高法院でもなくローマ総督でもない筈である。